『家族計画』という昔のエロゲをご存知だろうか?
『天涯孤独の主人公、リストラ中年、中国人の密入国者、家出娘、自殺願望の女性など、社会から冷たくされる者たちが擬似家族を作り、各々の過酷な運命から互いに身を守っていく姿を描いた作品(Wikipedia参照)』
なんとも真面目なストーリーであるように思える紹介だが、実際の内容はハートフルコメディのストーリーであるので、ぜひ時間がある方はプレイしてみて欲しい。
今回は筆者が日頃から「こんなのあったらいいな」と思っている『レズビアン家族計画』について話していきたい。
レズビアン家族計画
・レズビアンは孤独だ
『孤独死は怖くないシリーズ』でも書いたが、クローゼットの中にいる地味なレズビアンから
「孤独死が怖いんです…」
と真剣に悩む声が聞こえてくる。
「たった一人で死ぬ」という死への恐怖と、「レズビアンのうえに彼女もいないので、死後に火葬や墓の管理などしてくれる人がいない」という死後の諸々の手続きとそれにかかるお金の心配をされている方、多くはその2つの理由を話されることが多い。
しかし、私は彼女たちの言葉の裏側に、もうすでに孤独に苛まれた現状を感じることがある。
そんな冷たい孤独の暗闇に私がいくら「〇〇すれば、孤独死は防げますよ」と言っても、彼女たちの心には刺さらない。
そうだ、レズビアンは孤独なのだ。
ちょっとでも孤独に対抗するよう、必死に自分の中の僅かな自己肯定感をかき集めて立ち向かっては深い傷を負っていく。
そして彼女たちが戦わないといけないモノは、何も心の中の孤独だけではない。
結婚や社会進出といったような女性への差別とセクシュアルマイノリティへの差別、その2つの生きづらさ。
“普通”になれなかった彼女たちはどうやって生きていけばよいのだろうか?
そんな必死な彼女たちの問いに答えはない。レズビアンの一生というロールモデルがない。見つからない。
・一人は良い。独りは嫌。
「一人って気楽。ほんとに恋愛は面倒。でも、誰かと寄り添い合いたい」
「今はいいけれど、誰の手も取れず、誰かの特別になることもなく、死んでいくのが怖い」
“恋愛って疲れる!”“でも独りは寂しい…”そんな声が流れるTwitter。
矛盾していると思いつつ「分かる~」という気持ちが沸いてきてしまう。
恋愛は面倒で厄介だ。
お互いの心の距離感を掴むことも、意見の相違に落としどころを見つけるのも。
上手く相手の気持ちを自分に惹きつけていないといけないことだってある。
ちょっとした駆け引きや、利害の一致で関係性を繋げていくことだってある。
「ああ、面倒くさい」
でも、この人との関係が消えてしまうのはつらい。
加えてマイノリティーであるが故に、次にまた自分と相性の良いレズビアンと巡り合えるかなど分からない。
独りは嫌だ。誰かと良い距離感と関係性で繋がっていたい。
・レズビアン“家族”
ボロくてもいいからどこかに一軒家を借りて、孤独を抱えるレズビアンたちを集めて共同生活をしてみたいな、と思うことがある。
冒頭に述べたゲームのように“疑似家族”を作って、助け合う生活をしてみたい、と。
人と人との関係性のハッピーエンドは、なにも恋人同士になれるかどうかだけではない。
恋人同士という関係が「疲れる」というのなら、レズビアンの抱く孤独を解消できる関係性は“家族”なのではないか、と思った。
父(仮)、母、長女、次女、私、四女…
出来る限り“普通”の家族の形態を作るが、そこには血縁も婚姻関係もない。
それぞれに仕事を持っていて、もしかしたら恋人もいるかもしれないけれど、お互いのプライベートにはあまり立ち入らない(「長女、最近彼女出来たんだってー!」「言わないでー!!」という会話が家族内であるかもしれないが)。
一緒に毎日3回の食事をして、お互いを助け合って、家族の距離感でお互いを尊重し、意見し…共助的な関係を築けたら素敵だな、と。
私は『“家族”だから許される特殊な距離感』が存在しているように感じる。
“家族”という不思議な関係性、とでもいうのだろうか。
一見、ズカズカと母親が子どものプライベートに踏み込んでくるシーンもあるようにも見えるが、「ああ、アイツならこうするだろう、ああするだろう」といった信頼関係がある。
そんな適度な信頼関係が、レズビアンの持つ孤独に温かさを与えるのではないかと思う。
勿論、最初から上手くいくわけもないし遠慮し合うことから始まると思うが、時間がお互いの距離を縮めていくのではないか、と楽観的なことを考えている自分がいる。
・“家族”という期待と呪い
私は訳あって“家族”というモノから逃げ出してきた女だ。
そんな私だからこそ、“家族”という言葉には大きな期待と「“家族”は〇〇でなくてはならない」という呪いのような洗脳を感じてしまう。
そもそも、“家族”とは何なのだろうか。
『家族とは、婚姻によって結びつけられている夫婦、およびその夫婦と血縁関係のある人々で、ひとつのまとまりを形成した集団のことである。婚姻によって生じた夫婦関係、「産み、産まれる」ことによって生じた親と子という血縁関係、血縁関係(など)によって(直接、間接に)繋がっている親族関係、また養子縁組などによって出来た人間関係 等々を基礎とした小規模な共同体が、家族である。また、血縁関係や婚姻関係だけではなく、情緒的なつながりが現在の家族の多様性によって最重要視されている(Wikipedia参照)』
上記をまとめると、『婚姻から作られる血縁・親族関係』が“家族”ということになる。
そこに情緒的なつながりがあろうとなかろうと、“家族”と呼べてしまう。
『家族=愛情のある集団』という公式は成り立たない。
また、“家族”には性的、生殖、扶養、経済的生産、保護、教育…などの機能がある。
特に現代の“家族”は子どもを育てるという教育的な役割が大きくなっており、
『家族=子供を産み育てる集団』と定義づけても、もう問題がないようにすら感じる。
けれど、レズビアン“家族”には一切その機能はない。完全に情緒的なつながりしかない人間関係だ。
“家族”という期待と呪いを充分に発揮して、面倒かもしれないけれど切っても切れない関係性を築けたら最高なのにな、なんて思う。
まとめ
きっと私の願う『穏やかで幸せな理想の“家族”』というモノは幻想である。
けれど、そんな幻想の家族像を求めているレズビアンはきっといると思う。
“家族”というモノへの期待。憧れ。
地味なレズビアンが抱える孤独は大きい。そんな孤独に光を入れるのではなく、一人と一人、一緒に孤独を支え合える関係性があるのなら、それは救いになるのだと思う。